漢文法は面白い。漢文の「時制」は「移動観測式」だ。日本語や英語の時制が「定点観測式」であるのとは好対照だ。
日本語や英語では、「自分」は常に「現在」にいる。現在から未来や過去をのぞく。だから未来形や過去形で語る。
漢文は違う。「自分」は、まるでタイムマシンに乗るかのように未来や過去へ自由に移動し、現場を実況中継する口調で語る。だから、過去形も未来形も使わない。例えば、『論語』雍也第六「伯牛有疾」の漢文を読み下してみよう。 |
伯牛
、
疾
有り。子、之を問ひ、
牖
より其の手を
執
る。
曰はく「之を
亡
ぼせり。
命
なるかな、
斯
の人にして斯の疾あること、斯の人にして斯の疾あること」と。 |
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普通の古文(日本語)なら「疾ありき」とか「曰ひけるは」など過去形的に言う。
漢文訓読は例外だ。中国人の「移動観測式」時空観を日本人も追体験するため、あえて「き」「けり」「けん」など過去を示す助動詞の使用を禁欲し、現在形的な言い切りを多用する。上記の漢文訓読を直訳すると、 |
伯牛が病気になる。先生が訪問する。窓から彼の手を取る。
セリフ「おしまいか・・・運命か・・・この人物がこの病気になるとは、この人物がこの病気になるとは!」 |
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まるで芝居の台本だ。そう、芝居だ。世界を「移動観測式」でとらえる中国人は、千年前、二千年前の過去も、まるで現在進行形の芝居のように、ありありと語る。
漢文に故事成語や歴史物語が多い一因は、中国人の「移動観測式」世界観にある。ちなみに、現代中国語の時制も「移動観測式」で、日本語や英語とは違う。 |